2013年7月11日木曜日

外食やコンビニ弁当を続けているとなぜ体調が悪くなるか考

添加物や保存料だけの問題ではなく、そこには目に見えない、物質的ではない毒が盛られているかもしれないからです。





・・・そしてまた、食べものは愛のシンボルでもある。
あなたはなぜ自分が母親を愛するのか観察したことがあるかね?なぜ母親と子供のあいだにはあれほどに強い愛が存在するのだろう?
それは、母親とは最初の食べものだからだ。子供は母親を食べてきた、母親は子供のなかに入ってきた。子供は母親を、最初は愛の源泉というよりは食べものの源泉として自覚する。後になってから、子供が意識の上で成長してゆくようになると、母親への愛を感じるようになる。
食べものが最初で、そのあとに愛がつづく。そして食べものと愛とは、それが同じ源泉から来ることからいっしょに結びついて考えられる。だから、もしどこかの家を訪問して、何も食べるものを出されなかったらいい気持ちがしないのはこのためだ。あなたは拒否されたように、愛を与えられなかったかのように感じる。その家の人たちにとってあなたは客ではなかったのだと・・・・・。
もし食べもの飲みものを出されたら、たとえその人たちがどんなに貧しく、たいしたものは差しだせないにせよ、彼らの持っているものを何であれ出してくれたら、あなたは好感、安心感を抱く。あなたは快く迎えられたのだ、彼らは食べものをあなたとわかち合った・・・・・。というのも食べものは愛を連想させるものだからだ。

女性が男性を愛するときには、かならず男性のために食事を用意したがる。彼女はそれを差しだしたい、彼に食べてもらいたい。もしそうすることが許されなかったら、女性は不安を感じる。愛は食べものを通して流れてゆく。
愛は眼に見えない。愛は眼に見える乗物が必要だ。それに、食べものの質自体が即座に変わる。もしあなたを愛している女性があなたの食事を用意するとしたら、それはちがう質をもつ。その質は化学者が分析できるようなものではない。が、とにかくちがう質をもつ。
もし怒っている人が、あるいはあなたに敵対してあなたを憎悪している人が食事を用意するとしたら、それはすでに毒されている。なぜなら、怒り、憎悪、嫉妬などは血のなかにある毒だからだ。それらには独特の放射力があって、手を通して食べものに入ってゆく。
もしほんとうにあなたを憎悪している女性があなたの食べものを用意するとしたら、彼女は知らないまにあなたを殺すことさえできる。どこの裁判所も彼女をつかまえられない。あなたの食事を用意する女性があなたを憎悪しているとしたら、彼女と暮らすのはたいへんに危険なことだ。それはまわりの遅い毒薬だ。
だが、もしあなたを愛している女性なら、彼女は食べものを通じて自分の生命を与える、彼女は食べものを通じて自分の愛を与える。彼女は食べものを通じてあなたのほうに動いてゆく。


~osho, The Mustard Seedより

2013年7月8日月曜日

あなたの知らないインド

西洋では、大皿にドーンとローストした肉料理などを盛りつけて、それを個々のプレートに取り分けて食べるというのが、家族や親しい間がらで食事するときの常です。

中華の場合も、大皿に種々の料理を盛りつけ、テーブルが運よく回転式ならグルグル回して取り分けるか、隣席のおせっかいさんが、もっとお食べ、もっとお食べと取り皿に乗せてくれたりというのが常です。

インドでは基本的にターリーという大きな盆に小皿が何個か乗っていて、一人分がすでにセットされています。つまり、取り分けるということがないのです。

日本でも由緒正しいお膳は、ひとりひとり取り分が完結されていて、大皿から取り分けるということはありません。

お国が変われば食事の習慣も違います。

ワイワイ食事を楽しむというよりは、一人でこっそり食べるというのが本来のインド的食事の仕方です。

みんなで鍋をつつくことを楽しんだり、一人で定食に満足したりできる日本人だけが、西洋的なわかち合いの精神と、インド的な貞潔精神の両方の感覚を理解できるのではないでしょうか?


そして実はこれらの現象は、深い意識レベルにおけるあることがらを反映しているのです・・・・・




晩餐とは生を楽しむことのシンボルだ。
キリストにとって晩餐は瞑想的な現象だった。彼はいつも、弟子たちや友人たちがやってきて友に晩餐をとるのを楽しんだ。その最後の夜さえも、次の日には殺されるというそのときでさえ、彼は“最後の晩餐”を共にした。
彼はいっしょに食事することを楽しんだ。
そしてキリスト教はこの現象を宗教的な次元にまで高めていった。ヒンドゥーの人たちはこのことには完全に無知だ。これを理解するように努めなさい。

動物はかならずひとりで食べたがる。けっしていっしょに食べようとしない。これは動物性の一部だ。
もし犬がパンを一切れもらったら、すぐさまどこかの隅へ逃げてゆく。犬はそこに誰もいてほしくない。誰かがそのパンを取っていってしまう危険性があるからだ。彼は恐れている、恐怖でいっぱいだ。彼は食べる。が、ひとりきりで食べる。
わかち合う動物などいない。わかち合うというのはまったく人間的なものだ。もしあなたが自分の無意識の中に浸透していったら、そこにはかならず動物が隠れているのを見出すだろう。
あなたもまたほかの人たちといっしょに食べるのを好まない。ひとりになりたい。
バラモンが汽車でひとり旅しているところを見てごらん。食べる時には彼はみんなに背を向けて食べる。これは動物のようだ。彼は他者を招くことはしない。回教徒だったらほかの人をさそう、キリスト教徒だったらわかち合おうとする。だがヒンドゥー教徒はちがう。ヒンドゥー教徒たちはひとつ大きなことを見逃した。共に在ること、わかち合うことの感覚だ。
食べものをわかち合うときには人は兄弟になる。あなたがたはどうやって兄弟になるね?同じ乳をわかち合うことでだ。さもなければ、あなたと誰かを兄弟にするものは何もない。あなたは同じ乳房をわかち合い、同じ母親からの同じ乳をわかち合う。母親が最初の食べものだ。

食べものをわかち合うときにはあなたがたは兄弟となる。そして食べものをわかち合うときには、あなたは他者を恐れていない。そこには共同体(コミュニティー)が生じる。
ヒンドゥーの人たちには社会はあるが共同体の感覚はない。回教徒やキリスト教徒のほうがより共同体指向だ。彼らは自分たちの食べものをわかち合うことができる。
そして食べものとは生の上で非常に基本的なものだ。あなたは食べものに依存している。それがなかったら、あなたは死ぬ。他者と食べものをわかち合うことは、あなたの生をわかち合うことだ。

イエスはこれを祈りの地点にまで高めた。あなたはひとりで食べるべきではない。食べるときには他者と共に在るがいい。それはあなたのなかの動物性を超越することだ。

最後の夜、別れなければならなくなったその夜、イエスは友人や弟子たちすべてを集め、
“最後の晩餐”を共にした。死の前であってさえ、あなたはわかち合うことをつづけることだ。

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食べものは非常に基本的なものだ。それはわかち合うことができる。そしてわかち合いを通してあなたは自分の動物性を背後に置き、人間になれる。
ヒンドゥーの社会は最も古い社会のひとつだが、最も非人間的な社会のひとつだ。彼らはわかち合うということに関心をもったことがない。むしろ、彼らは、わかち合わないためにあらゆる障壁をつくりだしてきた。
バラモン(最高階級カースト)はスードラ(最下階級カースト)と共に食事はできない。ヴァイシャ(第三階級カースト)とも食事は共にできない。バラモンたちは自分より低いカーストとはいっしょに食べることはできない。そして、もしあなたが他者と共に食べることができないとしたら、あなたはその人を人間として拒絶することになる。もしいっしょに食べることができないとしたら、それが示すのは、あなたは自分自身を優越していると見なし、相手を劣等であると見なしているということだ。そこにはギャップがある。そのギャップはこの世で最も非人間的なものだ。




~osho, The Mustard Seedより